05 萬年里司 × 06 川上泰司 | 福山雅治30周年スペシャル企画 七人の男が見た「至近距離の真実」
Fukuyama
FUKUYAMA MASAHARU 30th ANNIVERSARY 30周年スペシャル企画 七人の男が見た「至近距離の真実」 30年の間に、福山さんと仕事をしてきたアーティストやクリエーターたちに話をお伺いしました。 福山さんと向き合う中で生まれたさまざまな想いやエピソードが詰まったTRUE STORY。 福山さんの才能を引き出し、運命を変えた(かもしれない)方たちの語りをお楽しみください。
目次
  • 01 大泉洋(俳優)
  • 02 大友啓史(『龍馬伝』演出家)
  • 03 木﨑賢治(「Good night」音楽プロデューサー)
  • 04 千葉幸順(コンサート制作会社社長)
  • 05 萬年里司(音楽プロデューサー) × 06 川上泰司(宣伝プロデューサー)
  • 07 SION(シンガーソングライター)

福山雅治さんへ

05 萬年里司(音楽プロデューサー) × 06 川上泰司(宣伝プロデューサー)

福山雅治さんへ 05 萬年里司(音楽プロデューサー) × 06 川上泰司(宣伝プロデューサー)
あらゆるものを吸収して自分のものにしていく圧倒的速度に驚かされた 05 萬年里司(音楽プロデューサー) × 06 川上泰司(宣伝プロデューサー) あらゆるものを吸収して自分のものにしていく圧倒的速度に驚かされた

われわれは元BMGビクターの社員で、福山担当でした。僕は福山がデビューした直後から担当になったんですけど、萬年さんはいつからでしたっけ?

ちょうど「Good night」のレコーディング中に制作担当として本人と初めて会った。そのときのことはよく覚えてる。

とんがってましたよね(笑)。それはやっぱり、ロックをやりたいっていう音楽の志向にも出ていましたし。

そんな中で「Good night」はラブソングだったから、自分の好きなものとのジレンマはあったと思う。でもその後に出したアルバム『BOOTS』を 聴いてみると、ちゃんとロックをやってる。すごくバランスのいい作品だと思う。

幅広くなりましたよね。僕はプロモーション担当だったので、修学旅行の時期を狙って原宿の竹下通りで本人の写真付きの往復ハガキを配ってね。興味のある人は返信してくれと。するとそれぞれの地元に帰った子たちから結構届くんです。それがファンクラブの母体になったりしましたね。30人集めてくれたら本人を連れて行くからと、いまでいうCDショップのインストアイベントみたいなこともやったりしました。

なにせルックスがいいから、それは武器として使うほうがいいんじゃないかっていう。そこもまた、本人からすればジレンマだったと思うけど。ただ、音楽も役者もやってチャンスをつかんだのは事実。そしてそれをすごく高いレベルで可能にしたのは福山しかいないよね。彼のすごいところって、吸収力の圧倒的な速さ。「Good night」からわずかな期間であらゆるものを吸収して自分のものにしていったような気がする。だって、いきなりステップアップした感じがあったよね? 

「Good night」がスマッシュヒットして、次の「約束の丘」でちょっとセールスダウンしたんですよ。でもその次が「MELODY」で、ドーンといった。アルバム『Calling』のときなんかは、アミューズもレコード会社も「ミリオンいくぞ!」みたいな感じになってましたからね。ただ、とにかく時間がなかった(笑)。

『 Calling』は制作が始まる前にすでにポスターができ上がってた(笑)。まだ1曲もできてないのに。同時に5つのスタジオを回した記憶がある。そこを福山が院長の回診みたいにぐるぐる回っていって(笑)。

なんとか合間でプロモーションの打合せもして……。すごかったなぁ、あのときは。次のアルバム『ON AND ON』はLAレコーディングでしたよね。

曲はある程度あったけど、詞ができていない状態で向こうに行って、すべてを一から録ってマスタリングまでして帰るっていうプロジェクトだった。最初は順調に滑り出したんだけど詞がなかなかできなくて、滞在期間も1ヵ月の予定が1週間延び、2週間延び、という感じになっていって……。

僕は中盤くらいに現地に行ったんですが、異様なほどピリピリしてた(笑)。しかも僕はその前に別件でサイパンで仕事してたので、真っ黒に日焼けしていて、一人だけすごく場違いというか(笑)。福山からは、明らかに「こいつ遊んで来やがったな」って目で見られた(笑)。

毎晩徹夜の勢いで詞を書いているときだったからね。合宿レコーディングみたいな感じだったから、みんながひとつの場所にいるんだけど、歌詞を書くのはアーティスト一人の作業だから、はっきり言っちゃえば僕を含め他の人たちはやることがないわけ。だからとにかく居づらい(笑)。ビールでも飲もうかと思って缶ビールをプシュっとやったら、その音に福山が反応して、ギロッ! みたいな(笑)。

はははは。そんな空気でしたよね。

そして『ON AND ON』の後は『M-Collection 風をさがしてる』を出して、音楽活動休止に入るんだけど、その期間って本人と会ったりしてた?

いや、会ってないかもしれませんね。

僕はね、とある仕事で一緒にルーマニアに行ったんだよ。その帰りの飛行機の中で福山が言っていたことが印象的でいまでも忘れられないんだよね。次はどんな音楽を作りたい? って聞いたんだよ。そこで本人から返って来たのが、「このまま1位を獲り続けるにはどうしたらいい?」っていうことだった。そこで彼の背負っているものの大きさだったり、一人で闘っている孤独感だったりが、僕にもようやく少しだけど見えたというか。だって、やろうと思ったらなんでもできるくらいのところまで来ている。それこそ自分の好きなロックをやりたいとか、誰かとコラボしたいとか。でも彼は、1位を獲り続けなきゃいけないんだと。もちろん1位というのは比喩なんだろうけど、自 分の好きなことをやっているだけではもう許されないポジションにいるんだっていうことを自覚してたんだよね。その後まさに人気絶頂期に休止を決断した。相当な覚悟だったと思う。それで、休止期間が明けて帰って来たときにはガラッと変わってた。

本当にびっくりしました。ものすごいレベルのデモを一人で作るようになってましたからね。

ギターはうまくなっていたし、ギター以外の楽器や録音機材にもとても詳しくなってた。だから休止期間というのは、彼にとっては休止ではまったくなかったんだろうね。あの期間があったからこそ、それ以降の活躍に繋がっていった。

いまだからわかることですよね。

好きな福山歌

萬年里司さん

全て好きな曲ですが中でも印象に残っているのは、「桜坂」ですね。僕がBMGビクターを先に辞めて、MCAビクターに移っていたんですけど、そこで再会することになりその移籍第1弾が「桜坂」だったんです。ものすごく強くなった福山雅治を感じた1曲ですね。Wミリオンを達成したという記録もそうですし、毎年桜の季節になるとかかる。永遠のポップスですね。

川上泰司さん

Good night」です。それまでは本人のロック志向を前面に押し出した曲作りが目立っていたんですが、木﨑賢治さんと組むことによって福山の持っている本質的な才能が初めて開花した作品だと思います。歌詞とメロディが合わさって、誰にとってもきっちり情景描写が見える歌になっていると驚いたのを覚えています。

萬年里司さん 川上泰司さんへ

萬年さん、川上さん、大変ご無沙汰しております。川上さん、30周年お祝いのお酒ありがとうございました。お気遣い本当に嬉しかったです。萬年さん、お祝い何も届いてないです。引き続きお待ちしております。もちろん冗談です(笑)。
BMGビクター時代は大変お世話になりました。とてもここではお話しできないエピソードも色々ありましたね…(笑)。――お二人とも僕より年上ですが、あえてこう呼ばせてください。お二人は僕にとって戦友であり、かつ共犯関係でもあり。とにかく90年代は濃密な時間を過ごしましたね。

僕が感じた萬年さんのディレクターとしての手腕。それは…、なんて言ったらいいんでしょうか…、萬年さんはですね…、現場にいてくれるだけで物事が上手く回るんですよ。もちろん褒めてるんです!萬年さんの類稀なる才能を!何を言うわけでもない、けれど萬年さんがその場にいることで物事が前に進んでゆく。一言で言うなら、現場に"やらせてくれる"んです。ネガティブな発言はせず「ん~、いいんじゃないかなぁ」と、とにかく現場を前進させてくれる。もし萬年さんが、ディレクターとしてもっと野心的に自分の色を出そうとしたり、主張を押し付けたりするような人だったら、当時の僕は反発したり衝突してたと思います。レコーディングの現場以外で思い出すのは、初めての写真集『Road song』の撮影でアメリカを横断したときのことです。排泄物を最終的に排泄する局部(ま、◯門です)に重度の疾患を抱えていた萬年さんは、全長3,800kmにも及ぶルート66を座したまま車で完走する自信がない、と。絶対途中で局部が破裂してしまうと怯えながら、どこまでも真っ直ぐ続く道、果てしない大空の下、簡易ウォシュレットとウェットティッシュの重要性を熱く熱く語っておられました。その時の瞳は今も忘れられません(笑)。

そして川上さん。80年代のイケイケだった音楽業界の空気を纏いながら90年代を軽やかに駆け抜けたTHE業界人、とでも申しましょうか。もちろんこれも褒めてるんですが、今で言うEXIT的な、軽やかさと芯を食った交渉術を持ち合わせてらっしゃったのでは、と。川上さんだからこその交渉力で、ヒットを生み出せてない僕なんぞをMステをはじめとする音楽番組等々へのブッキングをしてくださった。音楽性もはっきりと固まっておらず、かつドラマでの認知が先行した男性ソロシンガーソングライターという、売り込みにくかったであろう僕を、おそらく飲み外交の現場では、甘いマスクと軽妙洒脱なトークの合間に垣間見せる骨太な交渉術で、音楽番組の出演枠や雑誌のページをぶん取ってくれていたのだと思います。萬年さん、川上さん、本当に最高のチームでしたね。

90年代から00年代、10年代を経て2020年代。今は今としての面白がり方をしながら、引き続き共に20年代を駆け抜けていきましょうね!

福山雅治
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  • 01 大泉洋(俳優)
  • 02 大友啓史(『龍馬伝』演出家)
  • 03 木﨑賢治(「Good night」音楽プロデューサー)
  • 04 千葉幸順(コンサート制作会社社長)
  • 05 萬年里司(音楽プロデューサー) × 06 川上泰司(宣伝プロデューサー)
  • 07 SION(シンガーソングライター)